願い…
こんな姿を見て欲しくなかった。若いままで喰らって欲しかった。
ずっと、そう思っていた…。
長い白髪の老婆は枯木の様な腕を伸ばし、傍らの男を探す。
紅い髪をした男が、彷徨う手にそっと触れると、びくりと震え、恐る恐る握る。
否、握った積もりだった。
その力ない素振から老婆の生命の灯火が消えかかっているのが解る。
男は震え、切れ長の眼から涙を流す。
老婆は思う。
男に、こんな姿を見て欲しくなかった。
老いる前に、己を喰らって欲しかった。
しかし、己の最期を最愛の者に看取られるというのは、何と幸福なことか…。
心残りは、男を1人残して、己だけ旅立つこと…。
男は思う。
唯一愛した女性を看取る事への、残酷なまでの深い悲しみを。
1人取り残される事への深い絶望と恐怖を…。
「…紅丸…、私を許してくれ。お主1人置いて逝く私を…。」
これからの貴方が心配…。もう、私以外の血を飲もうとしない貴方が…。
私が老齢に入ってから、一体何年、貴方は血を我慢してきたのでしょう…。
「何を言う。我の事などもう捨て置け。」
神が居るならば、願おう。どうか彼女を罰してくれるな。
知っていて魔と一緒になった彼女を…。
それを望んだのは他でもない己自身なのだから…。
男は思い出す。老婆が、己に食らって欲しいとせがんだ昔を。
まだ老婆が若く、美しく、そして何者にも屈せぬ強い意志を持っていた遥か昔。
しかし、男は喰えなかった。女心を汲み取るならば、喰らってやるのがせめてもの愛情だろう。
しかし、男は男のエゴで喰らわなかった。男が喰らうという事は、女がこの世からいなくなることだ。
そんな事は耐えられなかった。だから喰らわない。彼女だけは…!
老婆は昔を思い出す。男に己を喰らってくれとせがんだ昔を。
自分の事しか考えていなかった、もう遥か昔…。
老いた己を見て欲しくないという、小さな乙女心…。
男は決まって寂しそうに微笑み、優しく抱きしめる。子供をあやすかのように、優しく…。
今の己はもう美しいとは言えない。
長く艶やかな黒髪は、いまやぱさぱさのくすんだ白髪…。
張りのある柔肌は、無数の皺が刻まれている。
手足も今では枯木の様…。
ああ、でも、私は幸せでした。貴方というヒトと出会えたことを。
貴方というヒトに、看取ってもらえることを…。
だからお願い、貴方を、貴方自身を見失わないで。